「連合平和行動」から考える「平和の尊さ」
連合茨城会長 内山 裕
今年も「連合平和行動」が始まりました。6月23日(土)から6月25日(月)にかけて開催されました『連合2018平和行動inオキナワ』には、連合茨城から私を含めて16名が参加しました。
「沖縄戦」の概要について書かせて頂きますと、沖縄戦とは、太平洋戦争の最終段階、1945年3月下旬から7月までの戦いを言います。1941年に太平洋戦争が勃発し、太平洋の島々で劣勢となった日本軍は、米軍が沖縄に上陸するとみて、米軍を沖縄に釘付けにする作戦をとりました。それは、本土決戦の準備をするための時間稼ぎであり、捨て石作戦だったと言われています。このため、沖縄は唯一の地上戦の場となり、住民が根こそぎ動員された悲惨な歴史があります。
6月23日は、本土復帰を果たした翌年の1974年に制定された沖縄県の条例により、戦争による惨禍が再び起こる事のないよう、人類普遍の願いである恒久平和を希求すると共に、戦没者の霊を慰めるため「慰霊の日」と定められました。連合は毎年、「沖縄慰霊の日」を皮切りに、広島・長崎・根室で平和行動を展開しています。今年の沖縄平和集会では、初日に「語り継ぐ戦争の実相と運動の継続で恒久平和を実現しよう!」とする、平和アピールを採択しました。
2日目の6月24日(日)は、参加者が12台のバスに分乗し、沖縄を見て・学んで・体験する事を目的に、3コースに分かれてピース・フィールドを実施しました。私達は「ひめゆりの塔/資料館・魂魄(こんぱく)の塔・糸数(いとかず)アブチラガマ・平和記念公園/資料館」のコースを回ってきました。どこを見ても、戦争の悲惨さや当時の住民の方々の計り知れない辛い経験を目の当たりにしてきましたが、ここでは「糸数アブチラガマ」を見学した感想を書きたいと思います。
「アブ」とは、深い縦の洞穴ことです。「チラ」とは、崖のことで、沖縄の方言で崖が縦に大きく落ち込んだ所を言います。「ガマ」とは、沖縄の方言で洞穴や窪みのことを言います。
沖縄本島は、ほとんどが隆起珊瑚礁で形成されています。数十万年と言われる長い年月をかけ、雨がサンゴ石灰岩を侵食し、自然の洞窟が出来ました。沖縄戦では、その「自然のシェルター」が住民を砲弾から守る避難壕として多くの命を救い、または日本軍の作戦陣地や、野戦病院として利用されました。沖縄戦時、この自然の洞窟は糸数住民の避難指定場所や、日本軍の地下陣地・倉庫としても使用され、戦場が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となりました。1945年5月1日から軍医、看護婦、ひめゆり学徒が配属され、約600名の負傷兵が運び込まれてきました。5月25日の南部への撤退命令により、重症患者が置き去りにされました。戦争が激しくなると、ガマは軍民雑居の形となって米軍の攻撃の的となり、多くの命が失われました。その後、米軍の攻撃に遭いながらも、奇跡的に生き残った負傷兵と住民が、米軍の投降勧告に従って、8月22日にガマを出ました。
ガマの中は、大変狭い通路が張り巡っており、明かりはありません。そんな中に、ひめゆり学徒の方を始め、住民も一緒になり600名以上の負傷兵の治療等に関わったと聞き、まともな医療用具もなく、自分達も飲まず食わずの中で、どれほど大変だったことかと思うと、何とも言えない気持ちになりました。
参加者のみなさん(平和祈念公園にて) |